速水御舟 『翠苔緑芝』

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引用元:Google Arts& Culture 山種美術館

Yamatane Museum of Art, Japan、 © Yamatane Museum of Art, 2013

 

人間の性格形成というものは、どのような性格であれ各人が意識的にせよ、あるいは無意識的にせよ、おのおの思想の中で選択した結果の産物に過ぎないのだと思う。

 

思慮深い人間であれ、軽率な人間であれ、そこには彼等彼女等の思想というものが存在していて、その思想はまた多くの外部要因から影響を受けている。

 

ある人は、両親兄弟に最も思想的影響を受けたかもしれないし、お付き合いした相手かもしれないし、またある人はミュージシャンやアスリートかもしれず、伝記の中の偉人という場合もある。人間とは不思議な生きもので、実在しない映画や小説のキャラクターでさえ思想的影響を受けることもできる。そして、実際にはそれらの複合的な自己選択によって思想というものが形作られていく。

 

そこには偶然が必然になる「偶有性」というものが多分に介在しており、僕はそれが人間、あるいは生き物の興味深いところで、その結果として生じる多様性こそが社会あるいは地球というものを考えるときの基盤になるのだと信じている。

 

また、偶有性によって生じた自己の性格と他者の性格とが交差する時、磁石の陰陽のごとく惹かれ合う二人は親友となったり運命の人だと錯覚するのであろう。

 

いや、しかしと僕は思う。

 

惹かれあったという主観は決して錯覚ではない。それは手触りのある認知として心の奥底で共鳴したガサゴソしたものだと。

 

少年時代、虫が好きでいつも多摩川の河原で虫網を手に一人佇んでいた。子供特有の澄んだ感性で辺りを見回すと草叢の少し離れたところにいる小さなハナムグリのような虫でさえ発見することができた。初夏の多摩川は強い南風が夕方になるとよく吹き、その風で波打つ草叢で、同じように揺れるクチナシの白い花に乗るハナムグリも僕の存在を認知する。その瞬間、僕とハナムグリは(おそらく)心の奥底でお互いの存在に共鳴するのだ。ハナムグリは花粉をたんまりと前足や触覚にこびり付け、無造作に花の蜜を舐めるふりをして、同時に僕のことを複眼で多像化させながら、警戒したりあるいは少しだけ受け入れてみたりする。そこには微妙な間合いというものがあり、僕が少しだけ焦って近づいた途端に飛び去ってしまったのだった。

 

その時、僕は夕暮れの一番星を見つめると、今度は急に視点が逆転して星のように高いところから僕自身とハナムグリを見ることが出来て、そうすることで大きな宇宙空間の中で偶然とも言える奇跡のような必然的な出会いの価値を初めて実感することが出来たのだった。

 

数十億分の一の人間と、そのまた何百万倍もいる昆虫一匹が、この場所で、今という限定された時間軸の中でまさに出会ったのだと。

 

***

 

そんなことを考えながら梅雨明けの蒸し暑い七月の夜道を歩いていると、暑さで枯れかけた紫陽花が佇んでおり、僕は御舟の「翠苔緑芝」を思い浮かべた。ちょうど六月に山種美術館で見た絵である。

 

絵の中の季節も六月であろう。紫陽花が咲き、青桐が葉を茂らせ、枇杷の実がなり、ツツジが満開である。右隻と左隻の対比的な構図の「苔」と「芝」、「兎」と「猫」、「紫陽花」と「枇杷・青桐」は、御舟が生きた明治から昭和という急速な西洋化の中での文化的混沌を、国有種と外来種という題材をモチーフに描いたのであろうが、僕は絵の中に単なる対比という構造的解決の前に偶然が必然となる出会いの緊張をはっきりと見ることができた。その証拠に左隻の白兎二頭は対比などではなく、今まさに出会いの共鳴という間合いをとって居るではないか。

 

御舟は、恐ろしいほど明瞭に物が見える画家である。対比などという詰まらないコンセプトに溺れてしまうのが詰まらない画家の通例だが、御舟に限っては今という瞬間には対比などという後付けの通念はなく、全ては偶然の中での出会いだということを予め看破していたのだ。

 

目の前にある夜道の萎れた紫陽花も、再び来年六月には厳かな雨の中で美しくも移ろいやすい色味を帯びた健気な花を咲かせるのだろう。

 

留まってはいけない。瞬間瞬間に埋没するごとく今を生きればこそ、改めて出会いの素晴らしさに感謝することができるのだから。

 

対比などと簡単に言って片付けるべきではない。少なくとも生命の奇跡を絵描いた美術作品においては。

 

そういう風に世界を見ることの出来る人間になれと、御舟は僕に語りかけているような気がするのである。

 
 (了)